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ジョン・スミスの消失
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「すまない、長門。これは返すよ」
その言葉は、何も書かれていない入部届と共に、わたしの目の前に突きつけられた。
明確な、拒絶の意志。
「そう……」
スローモーションのように白紙を受け取る指先の動きが、自分とは別の生き物のように映った。
暗澹と打ち沈むわたしから目を逸らした彼はパソコンに向き直ると何かのキーを叩き、そして
……消えてしまった。
*****
世界中の時計が時を刻むのを失念したように、わたしたちはその瞬間に縫い付けられたまま、動けなかった。誰もが呆然と、さっきまで居たはずのひとが居なくなった、からっぽの場所を見ていた。
「……ジョン……?」
ねじを回すようにゆっくりとしたつぶやきが静寂の呪縛を解く。次の瞬間、彼女は引き絞られたゼンマイのバネが弾ける勢いで、パソコンの前に立った。確かに灯っていたはずのディスプレイに文字は無く、電気の通わない、暗い沈黙に閉ざされていた。
涼宮さんと名乗ったその人が電源を入れると、暗闇のブラウン管が仄かに明るくなり、ちりちりとせわしない起動音が部屋に響いた。
「なにこのオンボロ、真空管で出来てんの?」
なかなか起動しないパソコンに苛立ちを隠そうともせず、細長い綺麗な指がキーボードの上を跳ねまわる。
叩くと言うより踏みつけると表現した方が相応しい彼女のキータッチに、学校から借りている備品が壊れはしないかと少し心配になった。
ようやく飾り気のない画面が現れると、マウスの矢印が警察犬のように隅から隅まで駆け巡る。容赦なく暴かれていくフォルダを見て心臓が早鐘を打つ。そこに、他人には見て欲しくないファイルがあったから。
「ぁ……あの……」
どう制止すればいいのか分からないまま漏れた声は、手のひらを叩きつける強い音にかき消された。
「なーんも見つかんないわ!ねぇあなた、秘密のパスワード知ってる?それとも合言葉?アカシックコード?」
唐突にふり向いた彼女はわたしを見据えて、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「待って!コンピュータはブラフかもしんない。一見何もないこの部屋に仕掛けが隠されてるんじゃ…」
ないわねと語尾が継がれる間にもう彼女は歩き出し、本棚やロッカーを覗き込む。勿論、そこには何もなかった。次いで彼女は部室の扉を押した。がちゃがちゃと鼓膜を叩く金属音が、確実に鍵が掛かっていることを告げた。密室という単語が頭を過ぎる。推理小説ではよく読むシチュエーションでも、現実世界では初めてだった。
「なによっ!今度は一体何をやったのよ!?ジョン、出てきなさい!今度という今度こそ解説してもらうわっ」
怒りとも苛立ちともつかない大声を周囲にぶつける彼女をどう宥めていいか分からず、残る二人を交互に見較べる。男の人の方はわたしと目が合うと、軽く肩をすくめた。この学校の制服を着た上級生は、わたし以上に状況が把握できてないようで、ただ、うろたえるばかりだった。
かつかつと、怒気をはらんだ靴音が部室に響き渡る。醒めて冷たく固まっていたわたしの頭が鈍く動き始め、目の前の現実がじわりと浸透してゆく。
――彼は、いなくなったんだ――
その事実がようやく、わたしの心に舞い降りた。
空白の入部届だけを握りしめ、わたしは床にしゃがんだ。膝の震えが止まらなかった。
*****
自分の家まで辿り着いた頃には、すっかり遅くなっていた。
鞄を置き、制服をハンガーに掛け部屋着に着替える。食欲はまったく無い。沸かしたお湯を急須に注ぎ、飲みたいわけでもないお茶を淹れて机に向かうまでの動作を、機械的にこなした。
あの後、涼宮さんという人は憤然と部屋を出ていった。失礼しましたと一言だけ断りを入れて、もうひとりの男の人も彼女の後を追って行った。無理やり連れてこられたみたいだった上級生の人は困ったようにわたしの顔を伺っていたが、やはり、お邪魔しましたと小さく告げて退出した。
四人が部室に入ってきて三人が出ていき、最後にわたしだけが取り残された。その計算は合っているようで、まるで合わない。
湯のみから立ちのぼる湯気を眺めるうち、急に思い立って、本棚の隅に置いてある棚から原稿用紙を取り出した。あのときはつい嘘をついてしまったけど、小説めいたものは少しずつ書いていた。誰にも、朝倉さんにも見せたことはなかった。
清書のときはパソコンを使うけど、借りられる時間が限られているし、画面を前に文章を考えるより原稿用紙の方がはかどった。紙と鉛筆の方が、自分の性に合っているのだろう。
机に広げた原稿用紙を裏返しにして、この三日間で起こった出来事を整理しようと思った。けれども握りしめた鉛筆は真っ白な平原で立ち止まったまま、一向に先へと進まない。一体なにが起こったのか、彼は何者なのか、彼女とは一体、どういう関係なのか…。
疑念から新たに雑念が生じ、頭の中を喧騒で包む。落ち着いて考えるどころではなかった。彼の輪郭までぼやけてしまって、そもそも白昼夢でも見ていたのではと、自分自身さえ疑い始めた。
でも、昨日、確かに彼はこの部屋に居た。それだけは間違いなかった。
翌日、お昼休みを待って一年五組の教室の前まで来たわたしは、予想外の事を知らされた。
「転…校…?」
「そうなのよね。突然だったからびっくりしちゃって。お別れ会くらいしたかったのね」
朝倉さんを頼って来たわたしは、教室を覗くと彼女の姿が無かった時点で困り果て、周りをすり抜ける生徒たちに声も掛けられずに右往左往するばかりだった。それを見とがめたのか、背の高い女生徒がおっとりした喋り口で話し掛けてくれた。
彼女の話では朝倉さんは今朝から姿を見せず、代わりに朝のHRで先生から、両親の急な転勤で外国へ行くことになったことを告げられたそうだ。一昨日の夜、朝倉さんがわたしの部屋を訪ねたときは、転勤なんて一言も云ってなかった。あの日、彼女としてはお別れのつもりで来たのだろうか。思いがけず別のひとが居たから、切り出せなかったのだろうか。
そして、彼については……。
「あなたの話で思い当たる人はね、わたしのクラスにはいないの。違うクラスじゃないかしら?」
朝倉さんの件で衝撃を受けていたわたしは、今度こそ、呆然と立ち尽くした。
目の前で申し訳なさそうな顔をしている人が嘘をついているとは、到底思えない。彼女は一度教室に引っ込むと、窓際で話をしていた数人の男子に話し掛け、わざわざ教室の前まで連れてきてくれた。
けれども、誰に訊いても同じ答えだった。
「キョン、キョンねえ……。なあ、いたっけ?そんな奴」
「さあ?めったにないあだ名だから、聞けば忘れてないと思うけど」
今更ながら、彼の本名を尋ねられなかった臆病な自分が歯がゆい。ふと、男子生徒の一人が好奇の目で見ているのに気付き、たちまち頬が熱くなった。
「…ぁ…あの、ごめんなさい…」
恥ずかしさのあまり背すじが汗で冷たくなっているのを感じながら、親切にしてくれた人におじぎをするだけで精いっぱいで、後は逃げるように自分の教室に篭った。
放課後。文芸部のある旧棟に行くのが、妙に怖かった。なのに脚だけは、急かすように部室へと向かった。部屋の前に立ち止まり、取っ手に触れようとして少しためらった。緊張しているのか、指先が震えた。
眼鏡の底に隠れるように俯いたまま、思い切って取っ手を握り、ドアを引いた。そこは、いつもの部室だった。昨日のようにたくさんの人で埋まることのない、古ぼけたパソコンと広げたパイプ椅子が一つあるだけの、小さな書庫。もちろん、彼の姿があるはずもない。
わたしは鞄を置いて、パイプ椅子を机に引き寄せた。本棚に向かおうともせず、机の上に突っ伏した。全身の力が抜け、顔を上げるのも嫌だった。静寂が刻む時間に押しつぶされそうになりながらも、まだ心のどこかに、砂金のような期待がわずかに残っていた。
外が暗くなり、闇で満たされた部屋を抜け殻のように出て行くまで、一度も扉は開かれなかった。
*****
自宅に戻ったわたしは、リビングの電気だけ点けて靴を脱いだ。机の上に、昨日の原稿用紙が散らばっていた。
けっきょく一文字も書かれなかった白紙を折りたたんで、ごみ箱に捨てた。何も書けない。書く気力もない。書きかけの小説も頭の中の物語もそのまま打ち捨てられ、形に成ることはたぶん、二度と無いだろう。
一度腰を落ち着けると着替えるのも億劫になり、制服のままフローリングの床に寝転がった。氷で出来たベッドを想像させる、ひんやりした感触に凍えながらも、なぜか、いまの自分に相応しいと思った。空腹を感じないのに、胃のあたりがきりきりと痛みを訴える。そういえば、ゆうべも何も食べてなかった。
朝倉さんが夕食を持って訪れることは、もう無い。彼女はいつも親切にしてくれた。人気者で、友達も沢山いるのに、なぜわたしなんかに構うのか、不思議だった。
どうして一言も云ってくれなかったのという恨みと、彼女にとってわたしは、その程度の存在に過ぎなかったんだという僻みが交互に渦巻いて、わたしを自己嫌悪に陥れる。こんな自分、好かれなくて当然だった。そう、誰からも……。
ものぐさな動作で片手だけ伸ばし、鞄にしまい込んだままの紙を探り当てた。しわだらけの入部届は、何度見返しても白紙のままだった。
あの時、本気で勧誘しようとしたわけではない。話の接ぎ穂が無くて、どう振舞えばいいか分からず、なにか云わなければと焦燥感に煽られ、つい渡しただけだった。おかしな女と思われてしまっただろうか、彼にそんな気持ちが無いのは明白だったのに…。それでも、ひょっとしたらという淡い期待は、仄かにあった。
今日の自分の行動を思い返すにつれ、自己嫌悪が否応にも増してゆく。
――いまさら彼を捜して、何になるの?きっぱりと拒絶されたのに、まだ追いかけ廻すなんて、気持ちの悪い女――
心のあらぬところから飛んできた言葉に、自分で傷ついた。
仰向けに身体を転がし、手に持った紙を白色の蛍光灯にかざしてみる。透かしがあるわけでも、文字が浮かび上がるはずもない。幼稚な、ばかばかしい行動。
わたしは彼の本名を知らない。もし、この入部届に名前が記入されていたなら、なんと書かれていただろう。
――ジョン・スミス――
どう考えても本名ではない名前を、空欄に重ねた。架空の名前が不意に滲んで、頬を伝って流れ落ちた。溢れた涙は、止まってくれなかった。
*****
冷たい床の上でそのまま眠ってしまったのがいけなかったのか、朝、目覚めると、頭が重かった。体温を測ったら熱が少し出ていた。幸い、今日は休日で登校しなくてもいい。のろのろと起き上がり、畳の部屋に向かう。布団を敷くだけなのに、体力を要した。体調以前に、気力が回復していなかった。
布団の持つ暖かさに僅かばかり慰められ、その日は一日中、横になっていた。途中で、何度か夢をみた。哀しい夢なのか楽しい夢なのか、まるで憶えてない。
おぼろげながらに記憶にあるのは、夢の中のわたしは、ひとりではなかった。
休みが明ける頃には風邪も治り、淡色の青を塗りこめた寒空の下、カーディガンを羽織って登校した。学校の坂道を登るのがきつく、自分の教室に着いたのは普段より十分以上も後だった。
先週、風邪で学校を休んでいたクラスの人も顔を出していた。親しい友人たちと久しぶりねと会話していた。休みの間、わたしが風邪をひいていたことを知る人は、誰もいなかった。
放課後の予鈴が鳴り終えると、いつものように文芸部へ向かった。格別、本が読みたかったわけではない。ただ、わたしの居場所はそこにしかなかった。
部室に入るとき、以前のような期待は持たなかった。無造作に開いた扉の先には、いつもの部屋が佇んでいる。かわり映えのない、変わるはずのない風景。わかっていても、失望を感じた。
先週から読んでいた本をまだ読み終えてなかった。図書館から借りたもので、水曜日には返さなければいけない。だけど結局、別のを手に取った。あの本を開くのは、まだ辛かった。
まるで頭に入ってこない物語が20ページほど進んだ頃、なんの前触れもなく部室の扉が開いた。
「ちはーっ!」
先週、この部屋に訪れた涼宮さんと名乗る人が、満面の笑みで入ってきた。
「失礼します」
次いで、一緒に来ていた男の人。
「おじゃましまーすっ!」
その次は、髪の長い、初めて見る顔の女の人。
「あのぅ……また、お邪魔致します」
最後に、やはり前に連れて来られてた二年生の女の人。合計四人が部屋に入ってくるさまを、呆然と眺めていた。同じ北高の制服を着た、つややかな長髪の持ち主は二年生で、鶴屋さんと名乗った。
涼宮さんは、北高のものとよく似たジャージ姿にスポーツバッグを抱えていた。以前ここへ来たときは腰まであったはずの彼女の髪は、肩までの長さに切り揃えられている。わたしの視線に応えるように、軽いしぐさで髪の端を摘んだ。
「ああこれ?切ったのよ。切るべきだったから」
なんでもないことのように言って指先をはじくと、柔らかな羽根のように髪が舞った。なぜここに集まったのか見当もつかなかったが、わたし以外の全員は立ったままで、椅子が足りないことに気付いた。
「待って…」
わたしが立ち上がるより早く、涼宮さんは折りたたみのテーブルを広げ、人数分のパイプ椅子をどこからか持ってきた。まるで通い慣れた自分の学校のように振舞う彼女に、ややあっけにとられた。
「ねえ、お茶とかないの?あったかい飲みもの欲しいわね。茶菓子もあったらいいな」
「僕が買って来ましょうか?」
腰を浮かしかけた男の人を、元気の良い声が引き止めた。
「あー座ってて座っててっ。きみたちはいわばお客さんだから、あたしがちょいっとひとっ走りしてくるよ」
「じゃあ、わたしも…」
「おうっ、すまないねみくる」
同じ二年の朝比奈さんが立ち上がると、軽くお辞儀をして鶴屋さんの後に続いた。
「鶴屋さん、か。気持ちいいわね、サバサバしてて」
楽しそうに買出しに行った二人を見送った涼宮さんはこちらに向き直り、
「さてと…」
ぼそりと呟いて、鼠を目の前にした猫を思わせる笑顔をわたしに見せた。考えてみれば、よく知らない人たちの中で自分ひとりだけしかいない。咽喉の奥が、緊張で引き締まるのを意識する。
「長門さん、ね、名前はなんていうの?宇宙人の本名があるならそっちを期待するけど、フルネームでいいわ」
少し拍子抜けしながらも、宇宙人の本名なんて勿論持ち合わせのないわたしは、下の名前を言った。
「…ふうん、有機物の有に希塩酸の希か。有希って呼んでいい?あたしもハルヒって呼び捨てでいいから」
彼女はそう言ったが、同じ年頃の同姓に対しても名前で呼ぶのに慣れていないので、ただ曖昧に頷いた。
「改めまして、古泉一樹と申します。突然お邪魔して申し訳ございません。事前に電話なりで断りを入れられば良かったのですが、うかつにも番号を尋ねるのを失念してまして。休日は連絡が取れないので、学校のある今日伺った次第です」
たぶん同じ学年だと思うけど、ずいぶん丁寧な話し方だった。この人もやはり、涼宮さんと同じジャージを着ていた。
「ジョンから、あなたはいつもここに居るって訊いてたから。にしても悪いタイミングで休みが入ったものね、此処へ来たくてウズウズしてたのよ。クリスマス・イブなんか始終イライラしっぱなしで、もう最悪だったわ」
クリスマス・イブに続く連休の間、わたしはずっと寝込んでいたことを思うと、却って好いタイミングだったのかもしれない。
やがて彼女は、先日行ったようにもう一度、この部屋を探索し始めた。彼女が本棚へ手を伸ばしたときは思わず声を上げそうになったが、古泉という人の手が柔らかく肩を制止した。
「申し訳ありませんが、ひとまず気の済むようにさせてあげて下さい。決して乱暴には扱いませんから」
はらはらとわたしが見守るなか、涼宮さんは本を一冊一冊手にとり、素早くページを捲った。そういえば、以前、彼もここで、同じようなことをしていた。
「うーん、やっぱり何もないわねー」
すべての本の確認を終えた彼女が首を捻っているとき、たくさんのビニール袋を提げた二人が戻ってきた。
*****
「んじゃ、自己紹介もあらかた済んだところで、第一回目ミーティングを始めたいと思います」
お菓子を盛った紙皿を並べ、その机を取り囲むように椅子を並べた。鶴屋さんと朝比奈さんが並んで座り、その向かいは古泉さん、わたしの正面には涼宮さんが立っていた。
涼宮さんが息継ぎをする間を狙って滑り込ませるように、鶴屋さんが素早く手を挙げた。
「いちおう廊下でさらさらっと説明してくれたけどさっ、おさらいの意味でもういっぺん話してくんないかな?あたしその場に居なかったから、よく解かんないところが多くてね」
彼女は朝比奈さんの友人で、部室へ来る前に涼宮さんが朝比奈さんを連れてこようとしたとき、一緒に着いてきたそうだ。
「もちろん。それも含めて、最初っから話すわ」
涼宮さんの話は、三年以上前の、七夕の日の出逢いから始まった。日常でのやり場の無い不満、ジョン・スミスと名乗った彼との出遭い、その後もう一度、彼らしき人物に遭ったこと、そして、彼が話した、もうひとつの世界の話……。最初、興味津々という面持ちで身を乗り出していた鶴屋さんは、話が終わる頃には難しそうな表情で腕を組んでいた。
「ふむぅー、異世界人ねえ……」
「未来人、あるいは時間旅行者の類かもしれないけど、昔ジョンに訊ねたときにもうその枠は埋まってたみたいだから、そっちの可能性が高いわね」
そう言うと彼女は、意味ありげな視線を朝比奈さんに送った。
「半信半疑どころか1信9疑にも満たないけど、その人が消えちゃったのは事実なんだよね?みくるの話だけだったら、まーた昼間に寝ぼけてら、でおしまいだけどさっ」
朝比奈さんが頬をすこし膨らませて、抗議を込めた視線を送信する。視線を受けとった方は冗談冗談と、陽気に笑った。
「ジョンが消えたあの日、あたしはこの部屋から出てったあと、心当たりのありそうなところを街中探したわ、その翌日もね。結局無駄に一日費やしただけだったけど」
どうやら一睡もしないまま家にも帰らず、学校も休んだらしい。その行動力に感心した。
「後で考えると、現場から離れたのが失敗だったわ。思い直して家に飛んで帰って卒業名簿ひっくり返して、北高に行ってそうな知り合い探したの。ひとりだけ、猫の手より使えないやつだけどジョンと同じクラスの男子がいたから連絡取って訊いてみたら、なんと、そんなやつ知らないっていうのよ!ブン殴りたい気持ちを我慢して0歳児にも解かるよう噛んで含めた説明してみたけど、けっきょくおんなじ。
ねえ、これって異常事態じゃない?あたしは確かに、一年五組のあいつのクラスまで行って、ジャージを借りたのよ」
「しかしながら、それが彼のものだという確証はありません。あの教室に導いたのは彼ですし、意図的に他人の物を掴まされた可能性もあります」
額に指をあて、脚を組んだ姿勢のまま指摘したのは古泉さんだった。
「僕らが借りた体操着にはどれも、名前は書いてありませんでした。もっとも、僕もそうですし、高校生にもなるのに自分の持ち物にきっちり名前が書かれているなどと、期待するほうが無理かもしれません」
わたしはちらりと自分の足元に視線を落とし、上履きのかかとが見えないようそっと隠した。
「じゃあ古泉くん、あたしたちの目の前でジョンが消えたことについての説明は?」
少し険しい声で涼宮さんが追求すると、
「……さて……。僕にホームズやポワロ並みの頭脳が備わっていれば、うまく解説出来るかもしれませんが…」
そう言葉を濁して、降参を示すように両手を上げた。
「…あの…」
おずおずと発言したわたしに、全員の視線が集中した。頬が紅潮するのを感じながら、一年五組を尋ねたときの話をようやく最後まで説明し終えた。
「それよっ!そういえば谷口のやつ、あたしが電話したとき『おまえも尋ね人の話かよ』とかなんとか口走ってたっけ。同じ日にそんな話があったんならちゃんと云えっての!…んっとに、ミトコンドリア以下の役立たずねっ!」
憤然と捲くし立てる涼宮さんに、その谷口という人が、話を訊いてもらった男子生徒のどちらかなのだろうと思った。
「では、彼の消失も、彼の話自体も真実だとしましょう。であれば既に、この世界から消えた確率が高くなる。それで一体、どうやって捜し出すのですか?」
「だからっ、草の根分けても探すのよっ!草の根分けても出てこないなら穴掘って掘り進んで隠れ家を徹底的に暴いてやるの!もしかしたら異世界人じゃなく地底人かもしれないからねっ」
「いえ、ですから…」
再び反論しようと開きかけた口をねじ伏せるような剣幕で、涼宮さんの手のひらが机に振り下ろされた。
「云っとくけどあたし、もの凄ぉ~く怒り狂ってるんだから!三年以上も放っといて無しのつぶてで、あきらめかけてたところにいきなり現れたと思ったらあっという間に消えちゃってっ!…ずるいわよ、自分ひとり…」
輝く陽光の瞳が、ほんの一瞬、雲に遮られたような翳りを帯びる。けれど、真夏より眩い双眸の光が、曇りを吹き飛ばした。
「それにジョンの言ったことが本当なら、その世界のあたしにも文句を言いたいのよ!すんごく面白そうな目に遇ってるのに気付きもしないなんてっ!あたしの両眼は見るだけなんかに付いてない、世界の不思議を探すためにあるのに、見当外れな場所ばっかうろうろして真実を見抜けないなんてまったく、情けないったらっ!
…ああもうっ、今すぐ飛んでって節穴の用も足さない欠陥商品の目んたま交換してあげたいわっ!」
古泉さんはまだ何か云いたそうな表情だったが、結局、聞く耳も持たないと判ると沈黙を選んだ。
「でも、まずはジョンね。あたしの苦情は原稿用紙600枚程度じゃ済まないわよ。何徹しようと一字一句漏らさず、目の前で読み上げてやるんだから!もちろんその間ずっと、あいつは正座ね。以後こころを入れ替えて楽しそうなイベントには必ずわたしを巻き込みますと誓うなら、そうね、土下座だけはかんべんしてあげてもいいわ」
怒ってると自分で宣言したその表情は、サンタクロースに出遭うのが待ちきれない子供のような笑みを浮かべていた。
「決めたっ、あたしも協力するよっ!」
突然、パイプ椅子を跳ね飛ばしそうな勢いで鶴屋さんが立ち上がった。
「知らない世界に放り出されて右も左もわかんないのに、親しい筈の人に知らない顔されたりしたら、誰だってヤだよね!初めて行った世界がそんなだったら嫌いになっちゃうよね!あたしいま、ものごっつーッ後悔してるのさっ!困ってるなら助けなきゃいけないのに、どうしてちゃんと話を聞いてあげなかったんだいっ、てねっ!…なっ、みくる!」
晴れやかな表情を、真摯な瞳の光が彩る。その瞳は、傍らの友人に向けられた。朝比奈さんは十秒間ほど、大きな丸い目を瞬かせていたが、やがて小さく、でもしっかりと頷き返した。
「ええと……正直、いままでの話は良く理解できてないし、まだ半信半疑ですけど…。でもわたし、事情を知らないとはいえ、あんな態度とってしまって……出来るなら会って、ちゃんと謝りたいです」
「あははっ!グーで一発KOだったからね!みくるがあんなに強いとは知らなかったさ!」
「ひゃっ!?やぁもぅ鶴屋さんってばぁっ!云っちゃだめぇ~っ!」
仲のいい姉妹のようにじゃれ合う二人を見て、朝倉さんともあんなふうになれただろうかと、少し羨ましく感じた。
「というわけで明日の放課後、駅前の喫茶店で四時半集合!時間厳守だからねっ」
「……あの……わたしは……ちょっと……」
ここまで話が進んでから、賛同の意思を示さないのはとても勇気のいることだった。だけど、今のままだと流されてしまいそうな自分を押し止めようと、やっとの思いで発言した。
「あっゴメン、なんか用事あった?そうよね、急に決めちゃったから…」
「い、いえ…そういうわけじゃ……」
実際、明日も明後日も、休日も何の予定もない。わたしが躊躇うのは別のことだ。
もし、わたしがついて行かなくても、彼女は自分なりの理由で、ひとりで動くだろう。……でも、わたしには……もう彼を捜す理由なんて……。
「じゃあさ、もし来れそうだったらあたしに連絡してちょうだい。あ、駄目でも、電話くれると嬉しいな」
そう言って、ノートの端を手で破り、携帯電話の番号と名前をさらさらと記した。
「はいこれ、走り書きだけど。…こういうとき、名刺があったら便利よね。今後の活動もあるし、作っとかなきゃ」
何かの行動を終えたとき、既に次の行動へと意識が向いている。彼女の動きが、なんとなく分かり始めた。
「でね、折角だからこの集まりの名前を決めたいんだけど、SOS団でどうかしら?なんか人のアイディアを拝借しているようで気が引けなくもないけど元はあたしの頭から出てきた名前みたいだし、ジョンを探す重要な手がかりのひとつだから、やっぱりこれじゃなきゃいけない気がするの。基本は民主主義だけど舵とり役は必要だから、あたしがリーダー務めても構わない?」
「いいよーッ!ぜんぜん異議なし、OKさーっ!」
鶴屋さんが挙手で賛同を示す。
「じゃ決まりね。でもそうなると、やっぱり活動拠点は必要ね。…うーでも、この部室いーなぁー。いっそのこと北高に転校しようかしら?」
一概に冗談と受け取れないほど考え込む彼女に、隣にいる古泉さんが心配するような視線を投げかける。以前も一緒にいたから涼宮さんとは親しい間柄なのかと思ったら、そういうわけでも無いみたいだった。
古泉さんはわたしと目が合うと、溜め息まじりの笑顔をみせた。
「ああなったらもう、僕には止められませんよ。おそらく、止められるとすれば一人だけでしょうね」
諦めたような口ぶりが、むしろ楽しそうに聴こえたのが意外だった。今までの会話から、この人は消えてしまった彼を捜すことにむしろ反対しているように思えたから。
「まあ、仮にここで僕ひとりが反対を掲げても、彼女は意に介さないか、無理やり引き回すでしょう。彼のおかげで僕の重要度は増したみたいですからね。…もっとも、いつまで僕に興味を持ってくれるかはわかりません。なにせこの世界では、超能力も秘密組織にもいたって無縁の、ごく普通の高校生ですから」
ただそれだけで、彼女についていけるものなのだろうかとのわたしの疑念を見透かしたように、柔和に笑った。
「それに、彼を探索する活動について行く理由なら僕にもあります。くやしいけど、あんなに生き生きとした彼女は初めてなんですよ。そして僕は、そんな彼女を見ていたいんです」
自然とわたしから逸れた目は、鶴屋さんと談笑する涼宮さんへ注がれた。
眩しいものを見るような横顔を、じっと見つめていたわたしもまた、太陽を仰ぐ向日葵のように彼女へと視線を廻らせた。
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その日の夜、自宅へ戻ったわたしは、遅くならないうちに、涼宮さんに連絡を入れた。明日、駅前の喫茶店で四時半集合ねと彼女は繰り返した。すこし息を吸って呼吸を整えてから、うん、と短く返事した。
わたし一人では何も出来なくても、独りじゃないなら、前に進めるかもしれない。
ひとりひとりの想いは違っても、同じ目的を共有できる、みんなとなら――。
電話を終えると、押し入れから炬燵布団をひっぱり出した。去年買ったものでそれほど古くはないけど、新しく買い替えるのも悪くないかもしれないと思った。炬燵に火を入れ、帰りに買ってきた真新しい原稿用紙を並べる。冷え切ったつま先が炬燵の中でじんわりと炙られる心地よさに、思わずため息が漏れた。
真っ白な原稿用紙を前に、鉛筆が止まった。書けないからではなく、どこから書こうかと悩んだ。しばらく考え、海外の作家が小説を誰かへ捧げるときにつけるような序文を思いついた。
いまからのこの物語は、きっと、ここから始まるべきだから…。
――拝啓、ジョン・スミスさま
もう一度、あなたに逢いたいです―― |
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